« ジャイアントキリングは十分にあり得る | トップページ | この悔しさは明日につながる »

2018年7月 3日 (火)

「国民国家」というフィクション

「国民国家」とは、国民意識を創出することによって成立した近代国家のことです。

私たちは「国民国家」というものを当然のものだと思っていますが、「国民国家」は元々あったわけではなく、フィクションとして成立したものなのです。たとえば、江戸時代の人々にとって、「国」といえば「藩」のことでした。彼らは、日本という国家に帰属しているという意識は持っていなかったのです。

しかし、近代的で強い中央集権的な国家を建設するには、このようなことでは困ります。そこで、権力者たちは、国語(共通語)、国旗、国歌、メディア、学校制度など、様々な装置を用いることで「国民」をつくり上げていきました。こうして、近代的な「国民国家」が成立したのです。

グローバル化の進展やテクノロジーの進歩により、「国民国家」というフィクションが急速に力を失いつつあるのが現代という時代だと思います。もちろん国という枠組みは残っています。4年に1度、オリンピックやワールドカップで、自分が何人であるかを思い出す機会もあります。しかしどうでしょう。「自分たちの生活はすべて国家にかかっている」だとか「国のためなら命も投げ出せる」と思っている人が果たしてどれだけいるでしょうか。そのような意識が共有できないならば、それはもう「国民国家」とは呼べないのです。

« ジャイアントキリングは十分にあり得る | トップページ | この悔しさは明日につながる »

経済・政治・国際」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く

(ウェブ上には掲載しません)

トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: 「国民国家」というフィクション:

« ジャイアントキリングは十分にあり得る | トップページ | この悔しさは明日につながる »